家隅盛塩雑記帳

幕末文久三年がホーム。マイナー新撰組隊士と悪役。

観柳斎捜索&備忘録

こんにちは、鈍行ながら武田観柳斎まとめをしている雑八です。

色々な本を読み、ここでこういう出来事があったのだ、
と覚えている最中なのですが、(本によって詳しさとか扱っている出来事が違うこともままあるので)
他の本で見たことを『土方歳三日記』(菊池明編著)で細かい日付け、内容などを確認しています。

でも一点、まだ詳細が分からないことがありまして。

元治元年の八月末、近藤勇の補佐として久留米藩邸に随行したという記述。

もしかして、新たに発見されたものだとか……(初めに参考にした本は2013年、歳三日記は2011年)
土方さんは関わっていなくて、省略されてしまったのかな?
などと思い至るに、昔、図書館で読んだ本を思い出しました。
『閃光の新選組
土方歳三新選組10人の組長』で武田観柳斎の項をお書きになった伊東成郎さんが、著した本です。

そこには、新選組のインテリ達が、どこかを訪った記録が記してありました。その様子はまるで有識者会議のようで驚いた記憶があります。
もしかして、そのことなのかなと今は思っています。

近々、閃光の新選組を買うか借りるかして仔細を確かめたく存じますので、また続報をお伝えします。

もし全然違ってたら滝汗ものですが……;;


それと。
元治元年八月頃、といえば、皆さんが思い浮かぶのは
"非行五箇条"のほうなのではないでしょうか。
永倉・原田ら古参幹部が近藤勇の専横を松平肥後守に上申した、あの(永倉さんの回想でのみ記されている)事件、
そっちにも、武田先生は関わっているといいます。
真かどうかは分かりませんが、
私はあの武田先生のエピソードが好きです。
武田先生というキャラクターを表して仕方ない、そんな気がします。

武田先生が近藤さんに取り入り、
それで近藤さんが偉ぶるようになってしまって、
(水戸派と会った頃から天狗になっていましたが)
永倉さんら数名がそれに怒り、肥後守様の機転で丸く収まったのち、
帰路で二刀を投げ出し「すべて私の責任です、どうぞこの首を打たれよ」と土下座しに来るってやつです。

最初は、
「丸く収まってみんなが安堵してる中、そんなことしたとて絶対斬れるわけない、かといって謝らないと今後の遺恨にもなるし、最高のタイミングだ!!」
と思ってはしゃいでおりましたが、

同時期久留米藩邸にも随行するようになり、
さらにこの頃はもう池田屋や明保野亭などの事件に出陣し、目に見える成果も上げている武田先生。
その活躍は隊中でもみなが知るものだっただろうし、
武田先生の言葉を借りるなら「家臣」として近藤さんの信頼を得ていると確信できる時期であります。
新撰組での絶頂期に向かいつつある武田先生は、
なおのこと"絶対に斬られまい"という自信を以て永倉さん達の前に躍り出たのではないかと思うんです。
もうその意味でも"無敵"だったのではないでしょうか。

もし武田先生が何もせず、ただ近藤さんの威を借る狐状態だったら、こんな小物!(バサーッ)ってなってたかも知れませんですしね。まあ無いでしょうけど。

無いでしょうけど…
(月明星稀を見つめながら)


色々治まったらまず本所に行きたいです。


令和二年 六月一日 江桷雑八