家隅盛塩雑記帳

幕末文久三年がホーム。マイナー新撰組隊士と悪役。

清河先生+新家粂太郎

1月に行なわれていた「幕末の志士・清河八郎の旅日記『西遊草』を復刻したい!」というプロジェクト、
このクラウドファンディングに支援した返礼の品が届いた。
せっかくなので結構豪華なコースに応募した。

清河八郎先生が綴った旅日記『西遊草』
遺したものを集めた『清河八郎 遺芳』
その激動の人生から関係図まで分かりやすい『新釈
清河八郎

の三点と、お礼の手紙が来た。

このプロジェクトに参加してよかったなあとしみじみ思うものである。

清河八郎記念館の方がとにかく熱意があり、真摯に西遊草復刻へ動いていらしたのを見て、何かとても勇気づけられるものがあった。

数ヶ月前より、浪士組について真面目に調べたいと思いたち、書籍や分かりやすい動画からまとめるなどしてみると
目から鱗のような情報を得ることができた。

新撰組作品ではもっぱら少ししか出ないために、この界隈での誤った認識が広まりかねない清河先生だが、幕末史で見ると最重要人物のひとりである。
他人に説明しづらく、イマイチ納得もしていなかった浪士組の成立理由について、この数ヶ月の勉強が効いた。

…………背後にあるのは怠惰の数年間である。

すぐ動けよ。清河先生を見習って。

『西遊草』を読み、しばし幕末の旅姿に思いを馳せよう。


自粛ムードに取り巻かれて早期撤退したが、
この間水戸に赴いた。
図書館で古地図を広げ、『石河明善日記』を見るも、嘉永六年の項に新家半之允という人名しか読み取れず。
この半之允という人は分家らしく、粂太郎とは家が違うらしい。
天保時代の地図には水戸城を挟んで対角線の位置にそれぞれ新家家が2つあり。
新家清介と、新家九郎左衛門という名が書いてある。
どちらが粂太郎の家かは、今度常磐墓地に行って確認してくるつもりだ。
酒門のほうの写真を撮ったのだが、機種変をしたのでちょっと探し難い。

人名はしかと読み取れたのが何基かあったのだが………

水戸の旅で、新家家があった藤沢小路町といううつくしい名を持つ場所に行った。

水戸駅から歩いてほどなくある住宅街なのだが、
人気がなく、本当に静かだった。なんとなく、武家屋敷が並んでいた想像がつく町だった。
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少し道が変形しているので、勘で行ったが当たっていたらしい。旧町名の標が立っている。

もう片方の新家家のある浮草町、ひいては粂太郎の奉公先「磨臼屋(スルスや)」のある金町に今度赴きたい。

あと、図書館で金町の昔話(『明治大正の水戸を行く』)を読んだが、少し詳しいことが知れた。
旧藩時代は金町は商人街で、大層にぎわいのある街だったようだ。
はじめは木町といって、材木問屋が軒を連ねていたのが理由だという。
上金町は一丁目に穀屋が並んでいたので、「穀町」と呼んだこともあるらしい。
穀屋があるなら、穀にまつわる商売の磨臼屋も上金町にあったのかもしれない。
下金町は少し遅れて商人街になったそうだ。詳細不明。

今、同項で「町田観柳」って人名を見てビビった。
観柳って名は、当時にはそこそこいたのだろうか。
詳しくないものでわからない。
磨臼屋こそ載っていないものの、この本には興味深い昔話がたくさん載っているので、今後も読み進めてみようと思う。

いつもながら研究している方々には本当に頭が上がらない。本当にありがとうございます。

令和二年三月六日 江桷雑八